もう静かなので千羽鶴問題を

大人になっていなかったころに千羽鶴のパーツをつくらされたことがある年齢のわたしは、学校で何らかの事情で(修学旅行?)作成ノルマを示されたときに、なぜそれが必要なのか、何の意味があるのか、紙だって実用品なんだからこんなメモや包装材や燃料として使われない(そして教育用でもない)用途はよくないんじゃないか(そこまで具体的には言ってない。「結局それ捨てるんでしょ?」「ほこりつもるよね?やだな」ぐらいでしたね、よけいに悪い・・・)、と指示した教諭に質問しましたが、もちろん回答は得られませんでした。

 

家に帰って質問したけど、やはり親はそのシンボルが出される文脈に含まれそうな情緒(と近現代史的背景)を説明しつつも困っていました。ごめん。

 

やれば終わるタスクなので、たぶん何体か作って納めたでしょうね。かわいそうに当時の自分。

 

なんだけどね、昭和の「国際化」「情報化」以前の学校行事と、いまの成熟した年齢の(もしかするとその人の社会が広がっていない)人々とでは、千羽鶴やるのねとなったときの責められ方というか、不見識の程度が違うと思うのです。


といろんな人が言ってるのでそのへんは省略して、千羽鶴提案者にぜひ読んでいただきたい記事がこちらです。どう不見識だったか、考える材料になる。www.efe.com

動画もある。

www.youtube.com

 

わたしの価値観では、ここへ千羽鶴を送りつけようという人々は日本の面汚しである。